2019.6.23

 

身体全部の力がするんと抜けることがあるのだということを、先日初めて知った。

 

普段入ることの少ないお店の片隅で、人知れずに突然に一方的に終わる想いというものがあるのだね、なんて考えたりしながら。

文字に起こすと"結婚"というたったの二文字にとんでもない破壊力というか説得力というか信憑性、現実、生活、日々、これからの色々のこと。そういうものの凝縮というか。もの凄い力がや重みがあるように感じた。安直な表現だろうが鈍器で殴られたような、ナイフで刺されたような、拳銃で一瞬のうちに撃ち抜かれたような、じわり。 色々な感覚が入り混じっていた。

それと同時に"結婚"はパートナーではない他者にブレーキをかけるために存在しているのかもしれないな、などと変に冷静に考えたりもして。

 

私の片想いというのはいつでも独りよがりであり、受動的であり、自己完結的であった。

自覚があるのがタチが悪い。

 

 

唐突な終わりをどのように成仏させたらいいのか。

ただの自己満足、自己完結だということは重々に承知している。その上で想っていたことを伝えるというのは重要なのかもしれない。自分勝手ではあるがそれをしないと消化を始めることすらできないのかもしれない。

どうするのか、どうすればいいのか、上手に折り合いをつける方法を探っている。

 

今日は随分と遅れてきた梅雨の始まりの日になるのか、外はとんだ土砂降りになっている。

これで少しばかり軽くなれば良いのだけれど、なんて、そうもいかないのが感情や気持ちというものなのかも。

 

 

後日私は夜の飲屋街を彷徨っていた。

あのもやもやを吐き出せる場所はないかと、出来るだけ落ち着いていて店主が一人で切り盛りしているような。私のことも、片想いの相手のことも、お互いの背景や普段の空気感などを全く知らず、何の感情も介入もしない、初対面でも深い話が出来て今後一切行くことはないようなお店を探していた。

目ぼしいお店を見つけたので入ってみるも、どうもそういう感じではなさそうだったのでソルティドッグを一杯飲んでそそくさとお店を出た。

結局一度行ったことのある焼き鳥屋へ向う。年配の女性三人が営んでいるのだ。相談相手には打って付けだと思った。私のことはかけらしか知らないはずだ。

程よく飲んで食べた後に聞いてみた。

ざっくりと事の流れを話し、何かを求めているわけではないけれど、好意を寄せていたという事実を本人に伝えたい気持ちもある、今のもやもやとした心持ちが少しは軽くなるのではないかという内容だ。

 

一番近い友人にすら何も言っていない。近いからこそ言えなかったその事を口にすると、途端に涙が落ちてきて。あぁやっぱり相当なダメージを受けていたのだ、などと考えながらぼろぼろに泣いた。

その夜はわんわん泣きながら家に帰った。

 

 

女は男を書けない、一生。

 

いったい誰が言った言葉だっただろうか。

私はその言葉をふと思い出したのだった。

まだまだ若い十代の頃、ほんの少し心を寄せていた女の子がいたのだけれど、その子が学業とは別のところで物書きをしていた。とは言ってもあくまで趣味での話である。

その子の口からはよく、町田康太宰治山田詠美森見登美彦らの名前が発せられていた。夢野久作ドグラ・マグラの表紙をいやに覚えている。

私は森見登美彦の書籍を一冊借りて読んだことがある。文学に触れることに対して強い関心や憧れはあったのだけど、いかんせん文章を読むことが苦手であった。そこをどうにか重い腰を上げて読み始めることにしたのだ。本を借りてから返すまでに優に半年は経っていたように記憶している。

借りた本は『夜は短し歩けよ乙女』だったのだけれど、物語の面白味や楽しさなどは正直なところあまり解らず、その代わりに、読み進めていく面白さと物語を読み終えてしまう寂しさというものを強く感じたのだった。

そういった感覚は生まれて初めてのことだったのでとても良い経験になったと思っている。本を読むことは必ずしも退屈なことではないのだと。

そのきっかけをくれた女の子には本当に感謝している。

 

数年後、その書籍は映画化され、アニメーションと声優の力も手伝ってか、私はまんまと物語の面白さに引き込まれたのであった。

文章でも面白さを体感してみたい、という気持ちがふくふくと大きくなり、そうしてもう一度この本を手に取るに至ったのである。

 

森見登美彦が描く女性、とてもキャッチーで格好良く愛らしいではないか。そういう乙女に憧れる心がちらつくのもまた事実なのだ。

 

 

台北に首ったけ

 

 

桃園空港から飛行機が離陸して数十分。日本に帰り着いていないというのに、もう台北に行きたい……。
厳密に言うと滞在2日目の時点でもう台北に行きたくなっていた。現在進行形で台北に居て、滞在期間はまだあと1日あるというのにだ。
次はあれを食べよう、あのお店とあっちの夜市にも行こう、そしてあれを買って自分へのお土産はこれを買おう、はぁ……、ということしか頭に浮かんでこない。あまりにも早すぎる台北ロス。完全に首ったけである。
検索履歴が台湾で埋まっている、大変だ。「台北旅行」「台湾グルメ」「台北グルメ」「台北朝市」「台北珈琲」「鹹豆漿」「油條」「小籠包」「魯肉飯」「豆花」「仙草」「阿原」「九份グルメ」「パイナップルケーキ」「マンダリンオリエンタル台北」その他諸々。
インスタグラムのおすすめ写真も台湾・台北関連のものが格段に増えている。もはや台北テロだ。

今回は体調が万全の状態ではなかったことに加え、同行者と折が合わずに体裁は保とうと努力したもののメンタルが疲弊した3日間だったので心残りが多すぎる。
食への関心度が違う人との旅は悲しいことが多々あるのだなぁ、と痛感。
時間が押してしまっていたのでできなかったが、空港での滑り込みフードコートをやりたかった。
次は一人旅行を存分に楽しもうと思う。
秋頃にはもう一度行きたい。
ちょうど中節句の時期だから、尚活気のある台北を楽しめるのではないかと目論んでいる。
あぁ台北……。

 

 

好機逸すべからず

 

いつになく嫉妬心がむくむくとなってしまい、醜いものだなぁとひとりで凹んでいる。だが、それも仕方なかろうよ、と思い直してみたりみなかったり。

 

「やって駄目なら仕方ないし、それは早いに越したことはない。早い方が持ち直しが利く」

 

と言ったあの人の言葉を都合よく当てはめてみたりして。しかし、こちらの色々の準備が整わねば、などと言い訳をして二の足を踏んでいるのが現実の私である。

 

昼下がりのコーヒー屋で

 

私には、私の為の避難場所というものが存在していて、それが無くなってしまったら案外呆気なく死んでしまうのかもしれない。

 

小さなコーヒー屋さん、今は無きカフェ、友人が働いている場所、約束せずとも友人と会うことができる場所、気軽に会える距離にいる友人、手紙でも繋がっている友人。

そういうものが日々の生活をどうにかやり過ごす材料になっている。

私は基本的には人が嫌いで、できることなら関わりたくないと考えがちな人間だと思っている。が、ここ数年でその考えは少し変わってきているように感じている。

以前は「人は人、自分は自分」ということを頭では理解しているつもりではあるが上手く切り離すことができていなかったのだろう。

今にも増して人の目や意見を気にしていて、表を取り繕うことばかりをしていたように思う。私は自分の人生を生きているのであって、人に合わせて何になるのかと。もちろん同調や寄り添いが必要な場面もあるだろう。だが、それだからといって相手に合わせ過ぎるのはあまりにも不毛ではないか。万人に好かれることはない、かと言って万人に嫌われることもない。大半の人間にはさして何とも思われていないものだ。そいつらの機嫌を取ったところでどうなるというのだ。それならばその労力を大切な人、大好きな人の為に使いたい。嬉しいや楽しいや心地よい。きっとそれが幸せというものに近いのだろう。

こんなことを書いていると、岡山へ行った子のことを思い浮かべてしまい心臓が"ぎぃーっ"となるのである。

 

 

 

宵と雨


天気予報では晴れだったものの、通り雨なのか大粒の雨降ってきた。

 

 

傘を買うのも気乗りがしない。
どうせ同じくらいのお金を払うならと、一度通り過ぎていたバーでお酒を飲むことにした。
いくつもあるビールの中から何を飲むかを悩みに悩んだ挙句に、おすすめのメニューの一番上にあるドイツビールを頼んだ。
これがとても美味しかった。
次に来た時にも頼もうと思う。

何も食べていないところにアルコールを流し込んだものだから、いつもよりも酔いがまわるのが早い。
あまりない事なので少し戸惑う。

結婚式が重なっていたのか、二次会帰りであろうグループの話し声が店内に響いている。
静かに飲むお酒も素敵だけれど、ざわめきの中でのお酒もまたよいものである。

ギネスビールの美しさに見惚れてしまう。
なぜああも綺麗なのだろうかと。
ふわふわと細かな泡がグラスの上に集まってくる様はいつまででも見ていられるような気さえする。
あのふわふわに包まれて眠りたい、などと考えながら酔いに身を委ねる。

 

雨が止むまで、あとどのくらいだろうか。

 

 

 

 

ふと思うこと

 

信号待ちの間、お城のお堀沿いに「自殺対策強化月間」と書かれた旗が等間隔に並んでいるのが目についた。

はて、そもそもなぜ自殺をしてはいけないのか……。むくむくと湧き上がる疑問。
道徳的なものや宗教観、スピリチュアル的側面など色々とあるのだろうがいまいちしっくりこない。
生きていることがどうにも辛い。
自死を選んだ方が心への負担が軽くなる。
だとすれば自殺は他人が介入して咎めるものではないのでは、という考えに至る。
生きることを選択して解決する問題と、決してそうとは限らないこともあるのでは。

なぜ自殺をしてはいけないのか。
それに対する、すとんと落ち着く答えを考えてくれる人をずっと探してる。

 

思い込みとは恐ろしい

 

中学生の頃の学校帰り、信号待ちをしている時。横断歩道の白い部分に落ちる影の色が青みがかった薄灰色で、影というのは濃淡の違う黒色しかないと思っていた私はとんでもなく驚いたのです。

 

それと同時に、思い込みとはなんと恐ろしいのか、世界というのは可能性に満ちているのだ、そう思ったのです。

 

あの瞬間の、目の覚めるような感覚を感情をずっと持っていたいのです。

 

 

本の読み方について

 

家の外で漫画や本をじっくりと読む時は眼鏡を外しているのだけれど、見たいもの以外はぼやぼやにぼやけるのがよい。

まあ眼鏡をかけていても漫画に焦点を合わせていると背景がぼやけるのは当たり前なのだが、見る対象から視線を外しても視力が低い故に自動的に焦点が合うことはない、そこにあるけれど輪郭がはっきりとしないという不自由さ、一種の隔離されたかの様な感覚がよいのだ。

その方が集中して読むことができる気がするのである。九割がた気のせいだとは思うが。

 

私の中でのちょっとした切り替えなのだ。

 

そして漫画を読み終わり眼鏡をかけた瞬間の「戻ってきたなぁ……」という感覚をそれとなく楽しむのである。

 

 

などとそれっぽいことを書いてはみたが、そこに至った一番の理由は別にある。

単純に眼鏡をかけたまま読書をすると、自転車での帰り道に向かいから来る人がぼやけてしまい認識するまでに時間がかかり、双方に危険があるからである。

安全第一。